ジャーナリスト 幸徳秋水~土佐の偉人を訪ねて~ 【四万十私立図書館】

もしかしたら、

教科書には載っていないかもしれない。

けれども、

私たちは学べるかもしれない。

 

高知で育った、土佐の偉人たちの思想から、

よりよい明日を生きるための思考を。

四万十市立図書館 幸徳秋水文庫

高知県四万十市。

土佐の小京都中村にある幸徳秋水文庫。

そこには多くの書簡や原稿が展示されています。

四万十市立図書館 公式HP

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幸徳秋水(こうとく しゅうすい)ってどんな人?

幸徳秋水を語る上で外せないのが、

 

『非戦論』

『思想』

『戦争』

 

以上の3つです。

まずは幸徳秋水が生まれた高知県四万十市中村をご紹介します。

幸徳秋水生誕の街 土佐の小京都中村

時代をさかのぼること、室町時代。

戦国時代に突入するきっかけを作った『応仁の乱』の真っただ中。

舞台となった京の都は殺しと戦火に包まれたのです。

それもそのはず、

東軍16万 vs 西軍11万

後継者争いが膨れに膨れ、日本史上最大と呼ばれる内乱にまでなった時代。

五摂家(ごせっけ)一條家の一條教房(いちじょうのりふさ)さまが、四万十チホーにやってきました。

 

五摂家一條家の歴史は古く、

日本史最初のクーデターである蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)から端を発した政治改革『大化の改新』

にまでさかのぼります。

この大化の改新は皇極太上天皇とその親友である中臣鎌足が推進した政治活動です。

彼らの政治運動は無事に成功します。

日本で初めて行政法と民法、そして刑法の3つがそろえられた本格的な法律である、

『大宝律令』を創り、施行したのです。

 

中臣鎌足は大化の改新の後に大織冠(たいしょっかん)という最上位の冠位につきます。

そこから藤原の姓を授けられ、藤原鎌足と名乗るようになります。

 

時代は流れ、息子の藤原の不比等が皇族に側室を贈り、

天皇さまと藤原不比等の娘が血縁関係になったことで、

縁戚関係を用いた摂関政治システムが盤石に近づきます。

 

平安時代を思うがままに暮らした藤原家ですが、

時代は流れ武士の台頭、上皇による院政がはじまると、

摂関が政治の中心を担うことが難しくなります。

そうすると今度は平家と縁戚関係を結ぶことで、

家の力の維持するために動くようになります。

 

鎌倉時代になると、御所における特定の役職を独占できるよう分家が進み、

近衛家・九條家・鷹司家・二條家・一條家がうまれます。

 

公家の中でも天皇の御殿である清涼殿に立ち入る事が可能な身分。

その中で頂点に立つお家柄が五摂家です。

 

そして五摂家の一つである、一條家の一條教房さまが荘園だった、

この四万十チホーにやってきて、中村を京の都に見立てて街並み・地名をつけ、

街を発展させていきました。

そんな土佐の小京都で誕生した幸徳秋水。

町の有力者の家で生誕。

1871年(明治4)に高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれます。

両親は土佐の小京都で商家(薬種問屋)を営んでいる町の有力者。

しかし2歳の時に父親を亡くしてしまいます。

なので幸徳秋水さんにとって、女手一つで育ててくれた母親の存在が、

心の根底に大きくあると思います。

それゆけ幸徳秋水!

幼少の頃は、木戸明(きど めい)の私塾で儒教を学びます。

塾で神童と呼ばれた幸徳秋水さんは、勉強を重ね17歳の時に東京へ行きます。

板垣退助に協力して自由党結成に尽力した林有造(はやしゆうぞう)さんの元で勉強をするためです。

何を勉強していたのでしょうか?

自由民権運動

幸徳秋水が生きていた時代。

明治維新の大波の中で、多くの維新の志士たちが血と命を流し、

江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府がありました。

イギリスやフランスといった西欧列強が帝国主義を掲げ、ありとあらゆる国家と戦争をして、

無茶苦茶なことになっていた時代でもあります。

 

王政復古の大号令!

その頃は清という国がありましたが、アヘン戦争でボッコボコにやられてしまいます。

アヘン戦争の頃はまだ鎖国中で「このままじゃ西欧諸国にメチャメチャにされちゃう・・・。」

という不安が幕府にもあったでしょうが、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の4藩が合同で明治維新を推進。

「勝てば官軍!」ということで、幕府に政治の権利を手放させる大政奉還を実現させ、

この大政奉還の奏上を天皇さまが勅許したしたことで、王政復古の大号令が発せられます。

王政復古の意味

武家政治・共和制などが廃されて、再びもとの君主政体に復すること。

日本では、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、倒幕派による王政復古の大号令により政権が朝廷に戻ったことをいう。

ヨーロッパでは、イギリスのピューリタン革命、あるいはフランス革命による共和制ののちに、もとの王朝政治に戻ったことなどをいう。

引用:goo辞書

日本国民にとっては、将軍様がいなくなるどころか支配体制そのものが大きく変わる時代の転換点。

この頃に「ええじゃないか運動」も発生します。

「ええじゃないか、ええじゃないか」という掛け声で踊り始め、

男性は女装して女性は男装したりして段々ヒートアップしていく民衆運動です。

そのころ将軍たちは・・・

王政復古が発せられた後も、徳川幕府の軍勢は黙っているわけではなく、

アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談するなど、

王政復古撤回に向けた政治的な動きも見せておりました。

しかし「鳥羽・伏見の戦い」において、薩摩・長州連合軍が「錦の御旗」を掲げたことで敗退。

幕府という最高政治権力を手放すばかりか、国家の敵という汚名を受けることになるのです。

明治新政府のメンバー紹介

新しい政府をつくるぞ!となったら中心メンバーになるのは、

明治維新を推し進めた薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の人たち。

中でも薩摩藩・長州藩は力が強く、

薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通。

長州藩の木戸孝允(桂小五郎)。

そして政権が戻ったばかりの朝廷に使える貴族の岩倉具視。

そういったメンバーが中心となって、新しい国づくりをはじめることになります。

 

そうだ。視察に行こう!

といっても欧米諸国に対抗できる近代的な国ってどうやって作るの?

教科書や資料にのっているワケもなく、インターネットもない時代です。

「不平等条約をどうにかしないといけないし、海外へ視察へいこう!」

ということになります。

これが漫才師のカミナリに似ているでおなじみの「岩倉具視使節団」です。

 

まずは不平等条約である日米修好通商条約を結んでいるアメリカ。

その次に最強帝国主義国家のイギリス。

フランス、ベルギー、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン

イタリア、オーストリア、スイスなどを訪問したみたいですね。

新しい政府の首脳陣や留学生を含む総勢107名が参加したみたいですね。

 

そのころ留守政府では。

でも首脳陣がみんな海外に行っちゃったら、明治の日本はどうなるの?

ということで、首脳陣が視察に行っている間は、西郷隆盛・板垣退助を中心とした、

留守政府と呼ばれるチームに「海外列強に認められる強い近代国家」の基礎を創る事を任せました。

士農工商がなくなり、廃藩置県で大名がクビになったり。

華族・士族・平民といった新しい身分制度が誕生したり。

武士という身分がこの世からなくなる代わりに、徴兵令をいう制度ができたり。

なんやかんやで、そうこうしているうちに、

富国強兵を目指して頑張っていた留守政府チームの元へ、海外使節団チームが戻ってきます。

プロジェクトチーム同士のケンカ

西郷隆盛・板垣退助を中心とした留守政府。

国内の決まり事などは片付いたね。

そろそろ国外に目を向けないといけないね。

富国強兵だね。帝国主義だね。

ということで朝鮮半島に目を向けます。

そのころ朝鮮半島も江戸時代みたいに鎖国をしていたみたいです。

「じゃあイギリスやアメリカみたいに開国を迫ろう!富国強兵だし。」

と思ったかどうかは分かりませんが「武力で開国させよう!」という

征韓論を唱えはじめました。

 

ちょうど征韓論が留守政府チームの中で盛り上がっているときに、

海外使節団チームが帰ってきてこう言います。

 

「今は国外に目を向けている場合じゃあないだろ!日本がどれくらい時代遅れか知ってるの?」

さすがは使節団チーム。説得力が違います。

しかし使節団が不在の中で、国内の現状を追いかけていた留守政府はこう言います。

「特権がなくなった武士たちに仕事をあげてストレスをどこかで発散させないと、国内がやばいよ!」

というセリフが飛び出したのかは分かりませんが、発言力が強いのは使節団チームです。

まずは国内優先!ということで征韓論は却下されています。

明治六年の政変ー板垣退助・西郷隆盛の離脱

メンツをつぶされた板垣退助と西郷隆盛は、明治新政府から去っていきます。

その後、西郷隆盛はストレスや不満を持った士族たちに頼み込まれ西南戦争を引き起こし命を落とすことになります。

戦争という武力をもって新政府に対して、己の思想を語った西郷隆盛。

いっぽう板垣退助はペンを持って新政府に対して己の理想を突き付けることにしました。

自由民権のはじまり

独裁体制だった徳川幕府が、強大な政治権力を手放した大政奉還。

天皇が国の頂(いただき)の席に座った王政復古の大号令。

そこから発足した近代国家を目指す明治新政府。

中心は明治維新で活躍した薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)。

 

留守政府の時代も板垣退助は高知県出身なので発言力が弱かったみたいです。

「そんなんじゃダメじゃんか!頭だけすげ変わって独裁体制に戻るだけじゃんか!なぁみんな!」

とウィーン会議においてオーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスといった首脳国に不満を持つ多く小国を煽り、

「会議は踊る、されど進まず」という状況まで持ち込んだフランスの外相タレーランのごとく声を荒げた、

のかどうかは知る由は今やありません。

 

知る由はありませんが、高知県の偉人「板垣退助」は、自由民権運動をはじめました。

いろいろな目的や思惑はあると思いますが、大切なことが一つだけありました。

「選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立させる」

という請願です。

 

こういった請願が国民からでるということは、

その頃の日本には選挙で選ばれた政治家が、政治を行っていなかった。

ということです。

今では当たり前になっていることが、この頃には・・・

と言い出すと学校の授業みたいになってしまうのでやめますが、

 

とにかく!

 

板垣退助は国会や憲法を政府に作らすために「民撰議院設立の建白書」を片手に日本中を駆け回ることになります。

 

日本を近代化させたい。

列強諸国に対抗できる力をつけたい

日本をインドや清のように、植民地にさせたくない。

メジャーになって、ビッグなドリーム実現したい!

 

様々な想いが自分の頭の中と、

古い思想を持つ人たちから、

新しくうまれた思想に夢を託した世代まで、

老若男女問わず駆け巡りました。

なにはともあれ、自由民権運動という政治運動を推進した板垣退助。

それに尽力した林有造。

そこに土佐の田舎町から東京へやってきた幸徳秋水。

『思想』と『戦争』

その2つの間で幸徳秋水は新たな人物と出会うことになります。

中江兆民との出会い

1888年11月ころから哲学者の中江兆民の家に学僕として住み込み、その門弟となります。

学僕とはお師匠様の家や塾などに住み込み、雑用を務めながら、お勉強をする人です。

 

中江兆民は哲学者で若いころはフランス語を学び、岩倉具視使節団の船にも留学生として乗船していたみたいです。

3年間の留学生活を終えて日本に帰ってきてからは、東京でフランス学の私塾「仏蘭西学舎」を開きます。

東洋で最初の日刊紙「東洋自由新聞」を 創刊した人です。

まさにペンで時代を動かそうとした人と言っていいかもしれません。

自由民権運動の弾圧

さて、話は少し戻りまして幸徳秋水より一つ前の世代のお話。

当時の政府の中心にあったのが大久保利通。

一度は板垣退助らが提出した「民撰議院設立の建白書」を無視します。

しかし、自由民権運動は盛り上がり続けます。

大久保利通が暗殺され、大隈重信と伊藤博文の2人をリーダに明治政府は再出発。

古い法律の廃止と新法律の制定で国の新陳代謝は激しく、

日に日に暮らしが一変していく日本国民は頭を悩ますことになります。

 

最初は華族や士族といった身分の人たちの周りで起こっていたこの運動が、

地方の農村部にまで広がりを見せるようになりました。

その頃の日本は最新技術などを輸入してばかりで、国外にどんどん金が出て行ったことをうけて、

金(ゴールド)と交換できる兌換紙幣のやめて、ゴールドとは交換できない不換国立銀行紙幣を採用しました。

1円の価値は下がりましたが、紙幣が多く刷られるようになったことで地方の農村部でも富を蓄えることができ、

自由民権運動を支援することができるようになったからだと言われています。

開拓使官有物払下げ事件

開拓使官有物払下げ事件は、北海道の開拓長官黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、

世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。1881年、明治十四年の政変のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放。

また、国会開設の勅諭が出された。

引用:wikipedia 開拓使官有物払下げ事件

ある日の朝。

玄関に投げ込まれた新聞にとある風刺画が掲載されます。

出典:ブログ 歴史は繰り返す

北海道のお役人さんが、お友達の民間企業の社長さんに、

国の設備や土地を、とんでもなく安い値段で売ろうとしたことが発覚。

そして大炎上した事件です。

自由民権運動は反政府運動へ

ここから一気に日本国民の政府に対する不満が高揚し、

攻撃という形に変異するようになっていきます。

海外視察をして近代国家のあり方を見てきた政府側も、

国会と憲法の重要性は分かっていました。

しかし議会のスタイルをイギリス流にするかドイツ流にするかで揉めていたのです。

立憲君主制は二種類、すなわち、実際の権力は議会に与えられ君主権は名目上にすぎないイギリス型と、

憲法は存在しても実際には君主権が制限されない(19世紀の帝政期の)ドイツ型に分類される。

引用:wikipedia 立憲君主制

話し合いがまとまっていないのに、在野の団体が騒ぎ始めた。

しかも攻撃までしてきた!ほんなら弾圧しちゃえ。

という事で自由民権運動に対する弾圧が始まるようになります。

1887年には保安条例というものまで施行されるようになりました。

幸徳秋水が中江兆民の家に住み込むようになった前の年です。

この法律ができたことで、自由民権運動は反政府運動になったことにもなります。

保安条例と新聞紙条例

保安条例:秘密の集会・結社を禁止。

新聞紙条例:新聞を取り締まるための勅令のこと。反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。

ペンは剣よりも強し?

軍事の力。

政治の力。

声の力。

思想の力。

金の力。(その頃は財閥というパワーもありました。)

力がある者が、国家を変えている。

力があれば国を変えられる。

そんな野望を持った若者たちも多くいたことでしょう。

新聞が汚職事件を暴き、世間が騒ぎ大隈重信が失脚した。

このムーブメントは「ペンは剣よりも強し」という格言を立証する事件です。

ジャーナリズムの業界にも反骨の精神を持った若者たちが流れ込んだに違いありません。

記者になった幸徳秋水

幸徳秋水さんは反政府運動をノリノリで推進するパンクスの中江兆民の元で自由民権運動を学びながら、記者として働くことになります。

2人のパンクス – Punks années 1980

1898年に『萬朝報』という雑誌の記者になります。

『萬朝報』は日本におけるゴシップ記事のパイオニアで権力者のスキャンダルや、

プライバシーを暴露する新聞だったそうです。

幸徳秋水さんもきっとアナーキーな記事を書いていたに違いありません。

パンクスだなぁ。

帝国主義を批判

ジャーナリストとしても、思想家としても活動していた幸徳秋水さん。

『廿世紀之怪物帝国主義』という本を刊行し帝国主義を批判しました。

列強諸国が帝国主義の時代で、他国を侵略して富をきずいていた時代。

なおかつ日本も見習おうとしている時代です。

この考え方は世界的にも稀有なものだったそうですね。

帝国主義とはー

一般的にはある国家が権威を背景とし,国境外の人々に対して支配権を及ぼそうとする膨張主義的政策をいう。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

足尾鉱毒事件に関わる

日本ではじめての公害問題になった足尾銅山鉱毒事件。

栃木の政治家であった田中正造が明治天皇に直訴したときの直訴状は、

幸徳秋水が書き、正造が手を加えたものとされています。

日露戦争の開戦

1903年に日露戦争の開戦が秒読み段階に入りました。

その頃のジャーナリズム業界では、反戦論を唱える新聞もありましたが多くは開戦論。

幸徳秋水さんが勤めていた『萬朝報』も非戦論から開戦論へ転向します。

やってられっかよ!ということで内村鑑三らと退社することになります。

ちょっとまって!そこに内村鑑三もいたの!?

という気もしますが、それは置いておいて退社後も幸徳秋水さんは自由民権運動を推進します。

そして投獄されます。新聞紙条例に引っかかっちゃったんですね。

入獄中にロシアの革命家クロポトキンという人物の本に出会います。

そして無政府主義に影響されることになります。

無政府主義とは

すべての不本意で強制的な形態のヒエラルキーに反対する政治哲学と運動。

アナキズムの歴史は、正式な国家や王国・帝国などが建国される遥か以前である先史時代のアナキズム的社会で人々が生活していた頃にまで遡ることができる。

アナキズムは、その理想的目標を達成するために様々な戦術を用いているが、それらは革命的戦術と進化的戦術に大別される。

アナキズムに対する批判は、主にその自己矛盾と暴力的性質、およびユートピア的であることに焦点を当てている。

引用:Wikipedia アナキズム

1904年に日露戦争が本格的にはじまります。

ジョルジュ・ビゴー(1860-1927) 日露戦争を描いたビゴーの風刺画。イギリスに背中を押され、 日本がロシアと戦う様子が描かれている。その背後にはアメリカが描かれている。

幸徳秋水と日露戦争

幸徳秋水さんはこの日露戦争をどう捉えていたのでしょうか?

日露戦争は、1904年2月にはじまり、1905年の9月まで行われ、

日本が外資の力を取り入れながら帝政ロシアに勝利します。

 

この日露戦争に幸徳秋水さんは絶対的に反対していました。

内村鑑三さんらと共にこの戦争に反対したマイノリティだったのです。

 

「われわれは絶対に戦争を否認する。

これを道徳の立場から見れば、おそろしい罪悪である。

これを政治の立場から見れば、おそろしい害毒である。

これを経済の立場から見れば、おそろしい損失である。

社会の正義は、これがために破壊され、

万民の利益と幸福は、これがために踏みにじられる。

われわれは、絶対に戦争を否認し、戦争の防止を絶叫しなければならない」

引用:日本の名著〈44〉幸徳秋水 (伊藤整責任編集)

 

日露戦争が終わり幸徳秋水さんはペンをとります。

非戦論を国民の道徳感情に訴えかけてプロバガンダを展開するためです。

しかし世論は大国ロシアに勝利して、イケイケムード。

戦争に酔いしれ、景気も良くなり、なんてたって列強国の仲間入り。

浮かれだった世間を眺めて幸徳秋水さんは嘆きます。

政府も国民も、酔っぱらっている。

都会も農村も、狂っている。

酔っぱらってその仕事を忘れ、

狂ってその職務を投げ出して、

やおらに万歳をさけんで走り回り、

大勝利をとなえておどりあがる。

四千万の頭脳に、まさに一点・半点の常識がない。

なんという醜態であるか。

引用:日本の名著〈44〉幸徳秋水 (伊藤整責任編集)

大逆事件のはじまり

ある日のこと天皇暗殺を目論んだ爆弾製造事件が起こりました。

長野県の工場で労働者の待遇や格差に不満を抱いていた機械工 宮下太吉。

天皇制に問題があるせいだということで、爆裂弾を使って明治天皇を暗殺する計画を企てた事件です。

しかし爆発物取締罰則違反容疑で仲間ともども逮捕されてしまいます。

逮捕されたメンバーは新村忠雄、管野スガたち。

この事件をきっかけに政府は全国の無政府主義者など反政府的な思想狩りを始めるようになります。

ジョルジュ・ビゴー「社交界に出入りする紳士織女」

「列強国からサルにしか見られてない奴らが浮かれていないで足元見ろよ。」

というようなことを言っていた幸徳秋水さん。

実は爆弾製造事件で捕まった管野スガさんの旦那さんだったのです。

「管野スガの旦那なら、お前も関係者だろ!ピーチクパーチクとウルサイしよぉ!」

という事で大逆事件のはじまり。

無政府主義者や反政府的な思想を持つ者たちの逮捕・検挙が始まり、

証拠不十分なまま1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決がでました。

 

大逆事件は幸徳事件とも呼ばれ、

まるで幸徳秋水さんが国家転覆を目論んで天皇を暗殺しようとした事件と受け取れる事件ですが、

幸徳秋水さんたちによる自由平等思想の普及を恐れた明治政府の弾圧による冤罪であったことは、すでに歴史的に証明されているそうです。

幸徳秋水刑死百周年記念事業について

 

大逆事件の後に日本は明治時代から大正時代へと移り変わっていきます。

まさに激動の時代に生きた幸徳秋水さん。

明治新政府の時代は流れが速すぎてゴチャっとしているので、どんな方なのか詳しくは知りませんでしたがなんとか時代背景を追いかけることはできました。

有名ではないけれど、掘り下げることで味わいが出る素敵な偉人が、まだまだいるんだなぁというのが実感です。

参考にした動画

参考にしたサイト

幸徳秋水(こうとくしゅうすい):熊野の歌 – み熊野ねっと

四万十市史跡めぐり 幸徳秋水

幸徳秋水刑死百周年記念事業について – 四万十市

続 壺 齋 閑 話 幸徳秋水の非戦論

「成人」した日本、「成熟」できなかった日本 ~日露戦争後の日本の歩んだ道~

幸徳秋水を顕彰する会

現代に生きる幸徳秋水

幸徳秋水と女たち(1)

5分で幸徳秋水について!労働問題の考えって?

中江兆民 (なかえ・ちょうみん) 1847~1901 自由民権思想家 ~東洋のルソー~

戦費調達に苦しんだ明治政府