私小説家 上林暁~土佐の偉人を訪ねて~ 【高知県黒潮町大方あかつき館】

もしかしたら、

教科書には載っていないかもしれない。

けれども、

私たちは学べるかもしれない。

 

高知で育った、土佐の偉人たちの思想から、

よりよい明日を生きるための思考を。

大方あかつき館

ということで、

高知県黒潮町にある大方あかつき館に行ってきました。

大方あかつき館(公式HP)

巨大な階段が特徴的な文化複合施設です。

建築は團 紀彦さん。

『海上の森の保全』をめぐっては環境保全を重視して、

新住事業など旧来の開発手法を厳しく批判した建築家です。

海上(かいしょ)の森とは

2005年日本国際博覧会(愛知万博 / 愛・地球博)の会場候補地として注目を浴び、

日本や世界の自然保護運動やその後の国際博覧会のあり方に影響を与えた場所である。

オオタカの営巣が確認されたことを契機に反対運動がひろがり会場計画が見直され、

森のほぼ全体が残されることになった。

今後は、愛知万博の理念や成果を継承すべく、将来にわたって保全していくこととなっている。

ー引用:wikipedia 海上の森

良い階段だぜぇ。

と思いながら数枚写真を撮りました。

庭園

松原に囲まれた庭園に立つあかつき館の看板。

上林暁文学のふるさと、と書いてあります。

町民ギャラリー

絵画や写真などを展示できる町民ギャラリー。

この日は何も展示されていませんでした。

上林暁文学館入り口

上林暁文学館の入り口です。

エレベーターもありますよ。

壁には上林暁さんのモノクロ写真が飾ってあります。

入館の手続き

上林暁文学館に入館するためには一つの手続きが必要です。

それは、貝殻を運ぶこと。

私は、模様がキレイな貝を運びました。

上林暁について

文学館に展示されている大切な資料は撮影禁止でした。

原稿用紙や色紙、生前使っていた道具などを眺め、

ピース又吉さんの写真を見つけてみたり。

アメトークの読書芸人企画で上林暁さんの本を紹介したみたいですね。

ピース又吉さんが紹介・話題にした本

上林暁『木の葉髪 ― 句集』

上林暁『ばあやん』

昭和文学の、あの時代の香りっていいなぁと思いながら気が付いた事があります。

「この人は何をした人なんだろう・・・。」

どんな人?

文学館というからには、何か本を書いた人なのは分かるけど、上林さんの本は読んだことがありません。

あまり耳にしたこともありません。ということで調べてみました。

誕生の地

高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口(現在は黒潮町下田の口)

下田の口といえば、幡多地域では知名度が低い(ファンの方すみません💦)

田ノ口古墳があります。

古墳時代後期(6世紀)の横穴式石室古墳らしいので、一度行ってみたいと思います。

生誕・没年

生誕:1902年

没年:1980年

明治時代。1904年から始まる日露戦争前に生まれたんですね。

ということはロシアはまだロマノフ王朝の時代。

怪僧ラスプーチンがまだ生きていますね、すごい!

影響された人

芥川龍之介。

15~16歳の頃に芥川龍之介にドはまりしたみたいです。

高知県立三中(現高知県立中村高等学校)の時代に友達と回覧雑誌「かせき」を発行。

この頃に小説家を志すことを決めたそうです。

徳富盧花、夏目漱石、有島武郎、室生犀星、菊池寛などの作品もよく読んだみたいですね。

はじめての受賞

1921年(大正10年)に熊本県の第五高等学校文科甲類に入学。

校友会雑誌『龍南』の懸賞創作に応募した『岐阜提燈』が三等に入選しました。

第一次世界大戦が終わり、ロシア革命が起こり、アメリカでは禁酒法がまだあった時代です。

時代が大きく動く中で、若き上林さんはペンを握っていたわけですねぇ。

小説家への道

芥川龍之介に憧れていた文学青年も、1924年に東京帝国大学文学部英文科に入学。

楽しいキャンパスライフのはじまりです。

とはいきませんでした。

関東大震災の翌年の話だからです。

 

1927年、出版社の改造社に入社します。

東大卒業後はサラリーマンをしていたんですね。

この時代に雑誌記者になるみたいです。

担当した作家人がそうそうたるメンバーですね。

岸田国士、横光利一、宇野浩二、井伏鱒二、川端康成など

 

サラリーマンのかたわら、自分でも同人誌「風車」を創刊しています。

会社にバレちゃマズイ!ということで、本名を隠すために「上林暁」という、

作家名を使うようになったそうです。

上林は熊本県に引っ越した時に住んでいた町の名前。

暁はなんとなく文字の感じが好きだったみたいですね。

 

精力的に同人活動を続け、25歳の頃に20歳の女の子と結婚します。

文学一筋とそれゆえの貧乏暮らしだったので、

夫婦関係は、なんともしっくりくる感じではなかったみたいで、

「彼女はモダーンだし、私は野暮だったのだ」

という名言が誕生することとなります。

 

1931年に『薔薇盗人』で文壇デビュー。

祝・メジャーデビュー!!

仕事でも編集主任になるなど順風満帆に覚えたが、

第一子を生んだ妻の産後の肥立ちが悪い。

半年余り別居を続けるなかでストレスが高まっていたところ、

改造社の社長に怒られて退職を決意。

本当に会社を辞めてしまいました。

厳しい現実

怒られて会社を辞めたものの、食べていけるわけでもなく、すぐに生活は行き詰まりアリジゴク状態。

そんな貧窮した暮らしの中で父親の重症の知らせが入ったので、高知に帰ってきます。

父親の病気が治っても、なんか東京に戻る気はしないし・・・

ということで地元でフラフラしていたら、両親の様子がおかしくなった事に気が付きます。

(私のことで親が揉めている!)

ということに気が付いてので33歳の時に家を出て上京する事に決めたそうです。

クーデターと呼ばれる226事件が起き厳重警戒態勢がとられた新宿駅へ。

再び東京で文学つながりの交友は広まったものの、健康面と創作活動面で最大のスランプに陥ったみたいです。

スタイルの獲得

すべてが行き詰って、どうにかなりそうになったときに「ぶちまけてやる!」

という心持になったそうで、自分の体験を題材にしたぶちまけ私小説を書くようになります。

飜って考えるに、

自分の胸の中にあることをぶちまけるといふことが、

文学の初歩であり、同時に究極である。

ー上林暁『節度ある文学』『文芸』 昭16.2

発表した作品は高い評価を受け、私小説家として文壇に再登場します。

家族に支えられて活動を継続

原稿料だけでは生活を支えることができないので、家族たちの支援を受けながら執筆活動を続けます。

そして将棋会にハマります。

1939年頃に将棋の会を通じて多くの作家らと交友を深めることになります。

戦争の間

1943年。厳しい戦時体制の下でも上林さんは私小説を書き続けます。

生活は裕福とは言えず、相変わらず実家からの支援を頼っていたそうです。

 

戦争による物資不足は、紙の不足を招き出版界全体が停滞していましたが、

戦後GHQによって民主化が進められるにつれ、多くの雑誌が作られるようになります。

出版ブームのはじまりです。

 

しかし、戦後まもなく上林は妻を亡くします。

それから・・・

1952年正月、49歳の時に脳出血で倒れます。

しかし断酒をするなど懸命な努力で回復しますが、1962年に重度の脳出血に襲われ右半身不随、歩行不能となりました。

1980年 享年77歳でした。

生涯で計29冊の創作集、1冊の俳句集、11冊の自選創作集、10冊の随筆・随想集を残したそうです。

上林暁作品の特徴

上林の小説は、大部分が短編の私小説で、郷里のことや自身の境遇、体験、見聞、感慨、心境などが題材である。

戦争や思想・政治問題には直接的には全く触れていないといって過言ではなかろう。

体制とか時流とは距離を置き、戦意高揚あるいは逆に反戦・厭戦を訴えるような作品は皆無といえる。

ひたすら私小説を書き進める地味な存在だった。

とはいえ、上林は、題材の背景にある時代や社会の在り様については的確に捉え、

そこに暮らす(暮らさざるを得ない)市井の人々の生き方を温かい目で描いているのであって、

行間からは、政治や権力、時勢、世間の不条理に対する上林の悲しみに耐える思いが読み取れるのであり、

これこそが “上林の私小説” として高く評価される所以だろう。

引用:上林暁の人生と作品

上林暁文学館のおすすめ。

上林さんが病床に伏したなかで、それでもなお文学への創作意欲を抑えられずに、

口を使って書いた原稿が展示してあります。

息ののむほどの迫力がありますので、一見の価値ありですよ!

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